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生活綴り方

生活綴り方とは,日々の生活を文章にして綴ることで、自らの生活を見つめなおし,生活を向上させようとする教育実践・・・だそうです。

最近,(少なくとも自分の中で)流行の言葉。

 ・シンプルライフ
 ・ミニマリズム
 ・Zen(禅)
 ・清貧


共通点は,いわゆる「持たない暮らし」である点。
「吾唯足知」の心境といえようか。
その姿は何ともかっこいい。
混沌とした自分の身の回りを見るにつけ,そのあこがれは深まるばかり。

一歩でもこれら「持たない暮らし」近づきたいと思うのだが,言葉のイメージばかりが先行していて,それぞれの実態は漠然としかつかめていない。
目標として持つ以上は,少しでも明確に対象を捉えておきたいもの。
そこで,紙Copiに徒然なるままに書き出しながら,これらの実体を考えてみた。

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シンプルライフでは,「大量消費,大量所有=幸福」という成金的な幸福は否定される。
だが一方で,自分が最高に気に入ったもの,選びに選んだものを持つことの喜びは,否定されるどころか大いに推奨される。
つまり「物欲」そのものは否定しないのがこの考え方。
数が少なければいいというわけではなく,その人の価値観に基づいて選び抜かれた「いいもの」だけに囲まれた,研ぎ澄まされた生活。そんなシンプルライフをとことん極め,隅々まで徹底的にムダを省き,芸術の域にまで高めた状態が,暮らしにおけるミニマリズムだと思う。


Zen(禅)はどうだろう。
禅そのものは仏教の一派であるから,「物欲」は当然否定されそう。
だが,「禅と茶の湯は密接に関係している」と言い出すと微妙に解釈が変わってくる。
利休が完成させたとも言われる侘び茶をはじめとして,茶の湯の世界はその所作,道具など,すべてのムダを省いた,ミニマリズムの極北とも言うべき存在である。
その中では,(本来は単なるお茶用の壺だったとしても)茶会という限られた社会の中でのみ通じる価値観に基いた,非常に高価な品々を,無造作に用いることが良しとされていたという。
晩年の利休が好んだ粗末な器も,後の時代には高価な「名物」としてやりとりされるようになった。
つまりここでも「物欲」そのものは否定されていないのだ。
いわば日本版シンプルライフ,安土桃山版ミニマリズムと呼べるほど,両者に共通点は多いと思う。
いや,こちらこそが元祖であり,海外の人々が "Zen" と表現するのはこの侘び茶の世界なのだと思う。

では,清貧はどうか。
本来の意味は「行いが清く正しいため,貧しい暮らしをすること。」
私利私欲を自ら禁じたため,物質的な満足が「得られない」状態を指す。
前の3者が「あえて持たない暮らし」であるのに対し,清貧は「持てない暮らし」というべきか。
だが清貧という言葉には,そのような辞書的な意味を超え,清々しさを感じさせるニュアンスがあると思う。※
「物質的な満足=物欲の充足」から解脱することで得られる,精神的な満足。
日本における「禅」は,こちらの世界を表現するにふさわしい言葉なのではないだろうか。

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結局,「清貧」とそれ以外という分け方ができるのだろう。
両者の姿はどことなく似つつも,その実は似て非なるもの。

むろんどちらかの方が優れているというものではない。
そもそも出発点が違うのだ。
シンプルライフ,ミニマリズム,Zenは「選択」がその出発点にあるのに対し,清貧の出発点は「我慢」にあると思うのだ。

そして物質文明と言うべき現代,メディアが日々物欲を刺激する情報を流し続ける中,物欲を追い求めてきた自分が,後者をすすんで選択するのは難しいだろう。
それはやせようとするものが,いきなり絶食にチャレンジするようなものなのではないだろうか。
「我慢」には強い精神力が必要であり,モチベーションを保つのは容易ではない。
場合によってはリバウンドの恐れすらある。

それよりも「選択」から始めようと思う。
そこには元々日本にあり,海外から逆輸入された「かっこよさ」がある。
かっこよさは,モチベーションを保つ大きな役割を果たすだろう。
そして,かっこよさを求める中で精神的に成熟したとき,もしかしたら新たなレベル,別の領域に進むことになるのかもしれない。

物質にあふれる現代文明に嫌気がさしたら,まずはシンプルライフから。
「我慢」ではなく,「選択」から始めてみることにする。


※参考-----------------------------------------------------

Amazon.co.jpより
http://www.amazon.co.jp/%E6%B8%85%E8%B2%A7%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3-%E4%B8%AD%E9%87%8E-%E5%AD%9D%E6%AC%A1/dp/4794204779/ref=pd_cp_b_1_img/378-3251691-5709449

清貧の思想 (単行本)
中野 孝次 (著)

内容(「BOOK」データベースより)
生活を極限にまで簡素化し、心のゆたかさを求めたわれらの先達。西行・兼好・光悦・芭蕉・良寛など清貧に生きた人々の系譜をつぶさにたどり、われら今いかに生きるべきかを改めて問い直す。

読み継がれて欲しい1冊, 2005/7/16
By 仮面ライター (札幌市) -
 本書が世に出たのは、まだバブル経済の余韻が残る1992年である。巷にはまだまだ、胡散臭い「青年実業家」や怪しげな「バブル紳士」などが跋扈していた頃であろうか…。
 そうした時代背景の中、清爽な一風といえるのが本書であった。「清貧」という「美しい思想」を、吉田兼好や良寛、鴨長明などの古典を通じてこの国の「精神文化の伝統」として見直し、「未来の新しい生の原理となりうるものを見出したい」という願意がひしひしと読み手に伝わってくる書物である。
 「清貧とはたんなる貧乏ではない。それはみずからの思想と意志によって積極的に作り出した簡素な生の形態」であり、「名利を求めず、貧を憂えず」(禅僧・寂室)、「自然といのちを共にして、万物とともに生きること」でもある。それは一部の文人たちだけに限られたものではなく、「言語表現能力を持たないふつうの生活者の中にも根強くひろく行き渡っていた」し、実際、私の父や母を含む祖先たちの志操であった。
 バブル経済の崩壊以降、ある意味で心の拠り所を失ったといえる日本人にとって、「清貧の思想」は掛け替えのない精神的「財産」であり、その思想を説く本書も長く読み継がれて欲しいと願っている。
 なお、著者の中野孝次氏におかれては、惜しくも04年7月逝去されており、氏のご冥福を心からお祈りしたい。












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