オダギリ展子 著
幻冬舎 2008年
著者Webサイト オフィス事務の効率学 http://www.office-jimu.com/
すぐに実践できるTipsがいくつも紹介されており,今日からすぐに実践したいものも多い。
無駄を省き,効率よく仕事をすすめるためのTipsの数々なのだが,その根底にあるのは,「ミスを起こさないための工夫」。
業務をスッキリさせることで,すみずみまで見通せるようになり,それがミスを防ぐことにつながる。
ついつい整理整頓自体や,それによる時間短縮ばかりが目的になりがちな自分にとって,「ミスを防ぐための整理整頓」という考え方は,目から鱗であった。
特に第1章 「No.2 書類の紛失・混同をさけるためは~」,「No.3 作業が一段落したら~」などは,今すぐに実践しなければならない。
ミスによるやりなおしなどの無駄な時間(や信用の失墜)を無くせば,結果的に仕事にかかる時間が短縮される。
急がば回れの仕事術と言えるかもしれない。
さて,このように本来の内容だけ見ても,大いに収穫ありの本書なのだが,自分にとってもっともインパクトがあったのは,読後に訪れた著者のサイトで見つけた以下の言葉。
これはまさに,私のために書いて下さったかのような文章!
そうだったのか!と,こちらもまさに目から鱗の思いである。
ただし私の場合,
教師という職業は,「時間割」という,ほぼ一年間変動しないタイムスケジュールを使う。
自分で思い通りに仕事の計画を立て,実行する余地など,日中にはほとんどない。
いわば常に時間管理されているようなもの。
そんな自分にとって必要なのは,「時間管理」ではなく「期限管理」だったのだ。
だからこれまで「時間管理」の本を読み,その内容に共感し,実践しようとしても,何か違和感を覚え続けてきたのだ。
もちろん,放課後やプライベートについては今後も「時間管理」が必要なのであるが,それよりもまずは日々の仕事をきちんとこなすことの方が,今の自分にとっては優先順位が高い。
いやあ!これですっきり!
著者は,今後「私流の「時間管理術」を考えてみることにしました!」と述べているが,自分はまず著者の「期限管理」術を参考に,しっかりと日々の事務処理等を果たしていきたいと思う。
幻冬舎 2008年
著者Webサイト オフィス事務の効率学 http://www.office-jimu.com/
すぐに実践できるTipsがいくつも紹介されており,今日からすぐに実践したいものも多い。
無駄を省き,効率よく仕事をすすめるためのTipsの数々なのだが,その根底にあるのは,「ミスを起こさないための工夫」。
業務をスッキリさせることで,すみずみまで見通せるようになり,それがミスを防ぐことにつながる。
ついつい整理整頓自体や,それによる時間短縮ばかりが目的になりがちな自分にとって,「ミスを防ぐための整理整頓」という考え方は,目から鱗であった。
特に第1章 「No.2 書類の紛失・混同をさけるためは~」,「No.3 作業が一段落したら~」などは,今すぐに実践しなければならない。
ミスによるやりなおしなどの無駄な時間(や信用の失墜)を無くせば,結果的に仕事にかかる時間が短縮される。
急がば回れの仕事術と言えるかもしれない。
さて,このように本来の内容だけ見ても,大いに収穫ありの本書なのだが,自分にとってもっともインパクトがあったのは,読後に訪れた著者のサイトで見つけた以下の言葉。
私がしていたのは「時間管理」ではなく「期限管理」だったのですネ!
何だか眼からウロコが落ちたようです!
18)時間管理
これはまさに,私のために書いて下さったかのような文章!
そうだったのか!と,こちらもまさに目から鱗の思いである。
ただし私の場合,
となるのだが。私にとって必要だったのは「時間管理」ではなく「期限管理」だったのですネ!
教師という職業は,「時間割」という,ほぼ一年間変動しないタイムスケジュールを使う。
自分で思い通りに仕事の計画を立て,実行する余地など,日中にはほとんどない。
いわば常に時間管理されているようなもの。
そんな自分にとって必要なのは,「時間管理」ではなく「期限管理」だったのだ。
だからこれまで「時間管理」の本を読み,その内容に共感し,実践しようとしても,何か違和感を覚え続けてきたのだ。
もちろん,放課後やプライベートについては今後も「時間管理」が必要なのであるが,それよりもまずは日々の仕事をきちんとこなすことの方が,今の自分にとっては優先順位が高い。
いやあ!これですっきり!
著者は,今後「私流の「時間管理術」を考えてみることにしました!」と述べているが,自分はまず著者の「期限管理」術を参考に,しっかりと日々の事務処理等を果たしていきたいと思う。
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井上雄彦作
集英社 1996(最終巻)
ラスト近く,桜木と流川がタッチする姿。
こんなにかっこよかったっけ?
ラストシーン,「天才ですから」と不敵な笑みをたたえて見返す桜木。
こんなにかっこよかったっけ?
何度目か分からなくなるくらい読み返してきた漫画なのだが,今回ほど感動したことはなかった。
特にラストの桜木の顔は,何か,こう,すがりつきたくなるようなかっこよさ。
こんなこと,今まで一度も感じたことがなかったのに。
今の自分の状況が,この感動にどう影響しているのかは分からない。
けれど,これまでの人生のどんな瞬間とも違う「今」だからこそ味わえた感動だったのだろう。
そしてこの感動はもう永遠に味わえないのだ。
これからも自分は変化し続けるのだから。
それは同時に,新たな感動に出会える可能性も意味する。
集英社 1996(最終巻)
ラスト近く,桜木と流川がタッチする姿。
こんなにかっこよかったっけ?
ラストシーン,「天才ですから」と不敵な笑みをたたえて見返す桜木。
こんなにかっこよかったっけ?
何度目か分からなくなるくらい読み返してきた漫画なのだが,今回ほど感動したことはなかった。
特にラストの桜木の顔は,何か,こう,すがりつきたくなるようなかっこよさ。
こんなこと,今まで一度も感じたことがなかったのに。
今の自分の状況が,この感動にどう影響しているのかは分からない。
けれど,これまでの人生のどんな瞬間とも違う「今」だからこそ味わえた感動だったのだろう。
そしてこの感動はもう永遠に味わえないのだ。
これからも自分は変化し続けるのだから。
それは同時に,新たな感動に出会える可能性も意味する。
『夢十夜 他二篇』
夏目漱石作
岩波文庫 1986年
高校時代だったか,中学時代だったかに,このうちの一篇,「第六夜」を教科書で読んだ。
運慶が仁王を彫る話である。
夢の中では不条理も道理となる。
その不思議な感覚は,誰しも経験したことがあるだろう。
それが鮮やかに切り取られ,眼前に差し出されたショック。
目が覚めながら,夢を見ているような感覚を,この物語を読めばいつでも味わえる。
あっという間にこの世界の虜となった。
『ショートショートの広場1』を読んだ後,無性に読みたくなり,久しぶりに手にとってみた。
もう知っているはずの,しかもまさにショートショートな長さであるにもかかわらず,最後の行までその世界の虜にされてしまうこの感覚。
「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。」
そう,解るのである。夢の中だから。
快感だ。
夏目漱石作
岩波文庫 1986年
高校時代だったか,中学時代だったかに,このうちの一篇,「第六夜」を教科書で読んだ。
運慶が仁王を彫る話である。
夢の中では不条理も道理となる。
その不思議な感覚は,誰しも経験したことがあるだろう。
それが鮮やかに切り取られ,眼前に差し出されたショック。
目が覚めながら,夢を見ているような感覚を,この物語を読めばいつでも味わえる。
あっという間にこの世界の虜となった。
『ショートショートの広場1』を読んだ後,無性に読みたくなり,久しぶりに手にとってみた。
もう知っているはずの,しかもまさにショートショートな長さであるにもかかわらず,最後の行までその世界の虜にされてしまうこの感覚。
「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。」
そう,解るのである。夢の中だから。
快感だ。
『ショートショートの広場1』(新版)
星 新一 編
講談社文庫 1985年
アマチュアによるショートショートコンテストの入選作を集めたもの。
一気に読んだ。
一つひとつが短く,独立した物語であるため,集中力が毎回更新され,単時間にこれだけの分量を読むことができる。
だが裏をかえせば,常に集中力を持続「させられる」ともいえ,非常に疲れる。
同じ分量なら,ふつうの小説の方が疲労感は少ないだろう。
星新一自身による短評も興味深く,一つ読むたびに巻末を見るといったことを繰り返した。
ちょっと邪道かもしれないと思いつつ。
練りに練った文章で,一気にラストまで到達する興奮。
その快感は,一種「早漏」的なものがあるように思う。
もう一つ,もう一つ,もっと,もっと…半ば中毒的に,むさぼるように読み進めてしまうところは,若者の性行為に通じるものがあるような。
そんな中,特に心に残ったのが,最後に収録されている,安土萌作「"海"」。
しっとりとしながらどこか乾いた
かなしいようで明るい
不安なようで安らかな
残酷なようで優しい
そんな風景や時間,独特の「時空」が描かれていると感じる。
わずか4ページという短さを感じさせない,でも短いからこそ何度も読み返したくなる作品だ。
その度に,これらの修飾語が前後逆になる予感。
------------------------------------------------------------
蛇足:
ありえないし,必要もないが,「"海"」を映像化するならぜひ押井守さんに。
攻殻機動隊の2作目の雰囲気で味わいたい。
ジブリには合わないだろうと思う。
星 新一 編
講談社文庫 1985年
アマチュアによるショートショートコンテストの入選作を集めたもの。
一気に読んだ。
一つひとつが短く,独立した物語であるため,集中力が毎回更新され,単時間にこれだけの分量を読むことができる。
だが裏をかえせば,常に集中力を持続「させられる」ともいえ,非常に疲れる。
同じ分量なら,ふつうの小説の方が疲労感は少ないだろう。
星新一自身による短評も興味深く,一つ読むたびに巻末を見るといったことを繰り返した。
ちょっと邪道かもしれないと思いつつ。
練りに練った文章で,一気にラストまで到達する興奮。
その快感は,一種「早漏」的なものがあるように思う。
もう一つ,もう一つ,もっと,もっと…半ば中毒的に,むさぼるように読み進めてしまうところは,若者の性行為に通じるものがあるような。
そんな中,特に心に残ったのが,最後に収録されている,安土萌作「"海"」。
しっとりとしながらどこか乾いた
かなしいようで明るい
不安なようで安らかな
残酷なようで優しい
そんな風景や時間,独特の「時空」が描かれていると感じる。
わずか4ページという短さを感じさせない,でも短いからこそ何度も読み返したくなる作品だ。
その度に,これらの修飾語が前後逆になる予感。
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蛇足:
ありえないし,必要もないが,「"海"」を映像化するならぜひ押井守さんに。
攻殻機動隊の2作目の雰囲気で味わいたい。
ジブリには合わないだろうと思う。
今,岩波新書F93,梅棹忠夫著『知的生産の技術』を読んでいる。
まだ読了していないのだが,今ここで言いたい。
この本はすごい!
今,LifeHackと呼ばれているもののうち,情報処理に関するものは,ほとんど全て網羅されているといっても過言ではないのではなかろうか。
たとえば「ユビキタス・キャプチャー」
たとえば「PoIC」
たとえば「『超』整理法」
・・・
これらの原型ともいうべきものが,次から次へと出てくる。
しかも初版が1969年!
さらには京大式カードの生みの親であり,KJ法にも深くかかわっているというのだから,「すごい」としか言いようがないのである。
そして何より感動するのが,梅棹氏の文を通して,先ほどの「ユビキタス・キャプチャー」や「PoIC」を見ると,そのシステムの本質というものが見えてくる・・・ような気がすることである。
よく「百聞は一見に如かず」という。
「伝聞をいくつ重ねるよりも,自分自身で見たほうが確実である」といった意味だが,まさにその心境だ。
今の場合は「見る=実践する」というより,「原典にあたる」といった程度にしかすぎないのは承知している。
だがともかく,これまでどうも曖昧で理解しきれていなかった部分が,くっきりと見えてきた心境なのだ。
もちろん,現在の技術の方が改良され,洗練されているのは間違いないだろう。
でもそのせいで,たとえばテクニックの面や,使うアイテムといったものに目を奪われ,かえってその本質が見にくくなることもあるのではないだろうか。
少なくとも,形から入る癖のある自分には,どうもこういうことが多いような気がする。
その,いわば目にかけられたベールを取り払ってもらえた気がするのだ。
ただ,1969年当時の最新技術が,現代にもそのまま通用するとは限らない。
特に大きな違いは,コンピュータが生活に入り込んだこと。
梅棹氏ならカードをコンピュータに置き換えるだろうか。
それともカードを使い続けるだろうか。
それともカードとコンピュータの融合を思いつくのだろうか。
氏の別の著作にもぜひあたってみたい。
なお,この書の続刊にあたる(あくまで氏は編者の立場にすぎないが)「私の知的生産の技術」は,絶版だが図書館にはあるようだ。
近々借りにいくぞ!
まだ読了していないのだが,今ここで言いたい。
この本はすごい!
今,LifeHackと呼ばれているもののうち,情報処理に関するものは,ほとんど全て網羅されているといっても過言ではないのではなかろうか。
たとえば「ユビキタス・キャプチャー」
たとえば「PoIC」
たとえば「『超』整理法」
・・・
これらの原型ともいうべきものが,次から次へと出てくる。
しかも初版が1969年!
さらには京大式カードの生みの親であり,KJ法にも深くかかわっているというのだから,「すごい」としか言いようがないのである。
そして何より感動するのが,梅棹氏の文を通して,先ほどの「ユビキタス・キャプチャー」や「PoIC」を見ると,そのシステムの本質というものが見えてくる・・・ような気がすることである。
よく「百聞は一見に如かず」という。
「伝聞をいくつ重ねるよりも,自分自身で見たほうが確実である」といった意味だが,まさにその心境だ。
今の場合は「見る=実践する」というより,「原典にあたる」といった程度にしかすぎないのは承知している。
だがともかく,これまでどうも曖昧で理解しきれていなかった部分が,くっきりと見えてきた心境なのだ。
もちろん,現在の技術の方が改良され,洗練されているのは間違いないだろう。
でもそのせいで,たとえばテクニックの面や,使うアイテムといったものに目を奪われ,かえってその本質が見にくくなることもあるのではないだろうか。
少なくとも,形から入る癖のある自分には,どうもこういうことが多いような気がする。
その,いわば目にかけられたベールを取り払ってもらえた気がするのだ。
ただ,1969年当時の最新技術が,現代にもそのまま通用するとは限らない。
特に大きな違いは,コンピュータが生活に入り込んだこと。
梅棹氏ならカードをコンピュータに置き換えるだろうか。
それともカードを使い続けるだろうか。
それともカードとコンピュータの融合を思いつくのだろうか。
氏の別の著作にもぜひあたってみたい。
なお,この書の続刊にあたる(あくまで氏は編者の立場にすぎないが)「私の知的生産の技術」は,絶版だが図書館にはあるようだ。
近々借りにいくぞ!
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