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生活綴り方

生活綴り方とは,日々の生活を文章にして綴ることで、自らの生活を見つめなおし,生活を向上させようとする教育実践・・・だそうです。

優れた授業のポイント    有田和正」を読んで思った。
「構造的な板書」とは,「板書計画を練った板書」のことなのだろう。

当たり前といえば当たり前。
また,逆は真ではないことも承知。
でも,今さらながら思ったのでメモしておく。

自分の数多い弱点の1つが,板書のまずさ。
「構造的な板書を」というアドバイスをもらいながら,しかし一歩も進めずに来てしまった。
克服するための努力をしてこなかった。

でも一歩を踏み出せずにいたのは,あまりに難しく考えすぎていたからかもしれない。
もちろん自分には,骨の髄まで面倒くさがりという,決定的な弱点があるのだが,
難しいから面倒くさい,恐い,と思ってきてしまったという面もあると思う。

板書計画を立てよう。
頭の中だけでなく,見える形にまとめよう。

小さな一歩から始めよう。
あたりまえの,でもやってこなかったことから始めよう。
今さら始めることを恥ずかしがらず,始めよう。
難しく考えず,またすぐにうまくなるとも考えず,ともかく始めよう。

隣の若い先生は,いい授業をする。
彼女は毎日,板書計画を書いている。
全時間の分かどうかは分からないが,毎日書いているのは間違いない。
自分は年上だが,彼女にかなわない所が多々ある。
才能うんぬんは置いておくとして,原因の1つがこれなのだろう。

まずは板書計画を,翌日のいくつかの授業分用意することから始めよう。
全時間と言えない所が,自分の残念なところだが,まずは一歩から。
自分の好きな言葉を支えに…。

「今日のあなたは,
 これまでの人生で一番経験を積んでおり,
 これからの人生で一番若いのです。
 さあ,今日から始めましょう」

これって誰の言葉なのかな?
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今回,小学校指導要領が改訂され,「外国語活動」が新設されました。
ブログの保守も兼ねて,それに関して思うことをつらつらと書きます。


学校教育における「国際交流活動」や「外国語活動」を考える時,私は無意識に「日本に来た外国人との交流」を想定してきたように思う。
日本に来る外国人は,(わざわざ日本に来るぐらいなのだから)日本についての興味も情報も持っている。
結果,交流に際してはこちらから日本をアピールする必要はなく,意思の疎通と,相手の外国人を知ることがその中心となる。
そのため国際交流といいながら,その内容は外国の言語や文化を知る活動となっていた。
今回の小学校指導要領の改訂で新設された「外国語活動」は,まさにこの限定的な考えの延長線上にあるのではないだろうか。

だがこのような状況は,国際交流の中でも,非常に特殊な例にすぎないことに,最近ようやく気づいた。
日本に来る外国人は,外国人の中でもほんの一握りにすぎない。

これからの時代,日本ということをほとんど知らない人々との交流こそが,国際交流の基本になると思う。
たとえば,自分が外国でホームステイをする状況を想定すべきだろう。
そして悲しいかな,(自分の経験からいっても)実際の国際社会では,日本という「国」はほとんど理解されていないといっても過言ではない。
そのため交流を行おうとすれば,まず相手に日本という国を,そして自分の生まれ育った県や市を知ってもらうところから始めねばならない場合がほとんどとなるだろう。
はたして,今の日本人に,日本の子どもたちに,どこまでそれが可能だろうか。

これは日本と経済的な結びつきが強い国においてでも同様だ。
もちろん,トヨタやソニーといった「企業」は認識され,評価されている。
だがそれは「企業」であって日本という「国」ではない。

では「国」とは何か。
国家同士の交流であれば,それは「政府」ということになるのであろうが,民間の交流であれば,それは「民族」や「文化」を指すのではないだろうか。
言語,歴史,生活習慣,文化遺産といった,いわばその国に住む人々が育み,受け継いできたものこそが,「国」と呼ぶべきものなのだと思う。
そしてこの意味での,国際社会における日本という「国」の認識は,悲しいほど小さい。
サムライ,ニンジャ,スシといったイメージがあればまだいい方で,実際は韓国や中国といっしょくたにされている。
そして当の日本人もどこまで母国の文化を理解しているのか,自分を含めて少々心もとないのが現状である。

国際社会に生きる日本人を育てたいならば,「外国語活動」を新設する前に,今まで以上に日本という「国」を学ぶ場を整えるべきだと思う。
それはアイデンティティとしての日本を,しっかりとした知識として身につけるための場である。
もちろん,外国語,特に英語を学ぶことは,国際社会を生きていく上で有効である。
だがそれはあくまで手段としてであり,少なくとも小学校では,それ以前に学ぶべきより大切なことが,もっと他にあると思うのだ。
具体的には,文化を形成する基本の一つである母国語を教える「国語」。
そして学習が発達段階に応じて,
  町(1・2年)→市(3年)→県(4年)→国(5年)→日本の歴史(6年)
と進む「社会科(生活科)」。
これらが特に大きな役割を果たすであろうし,指導する側もこのような意識をもって授業を展開しなくてはならないと思う。
「外国語活動」を新設をする余裕があるならば,より国語科や社会科の充実を,文科省には狙ってほしかったと思うのだ。

「愛国」という言葉が,非常に危険な言葉として扱われるようになって久しい。
だが,国民が愛さない国が,国民にとって住みよい,幸せな国になり得るとはとても思えない。
愛があるからこそ,より良くしたいという願いも生じると思うのだ。
そして,愛はまず知ることから始まる…ってこれは恋愛?

将来の日本を作り上げていく子どもたちに,自分の国を愛し,より良くしたいという心を育むこと。
そしてそれを,知識としても保障すること。
これらが,これからの教育には求められていると思う。

最後に私の大学時代の恩師が紹介して下さったことばを紹介したい。

  私たちは、ある国に住むのではない。
  ある国語に住むのだ。
  祖国とは国語だ。
  それ以外の何ものでもない。
               シオラン
教員は忙しい。
教員以外の職種も忙しいのは知っている。
だが,教員という仕事の異常さは,「時間が足りないことが大前提」だという点にあると思う。

1時間の教材研究(=授業の準備)に,1時間以上かかることはざらである。
教材の分析,資料集め,指導(略)案の作成,提示資料の作成・・・。
しかも学級担任制の小学校の場合,同じ授業を2回以上行うことはないので,ほとんどの教材は(少なくともその年度内は)使い回せない。
ところが授業が終わる午後3時半ごろから,退勤時刻である5時までに残された時間は約1時間30分。
その間に,翌日の6時間分の教材を,十分に準備できるはずがないことは明らかであろう。
さらに子ども達の様子を記録したり,作品を評価したりもする。
放課後の部活動を担当したり,イベントの計画・準備をしたりする場合もある。
そうなると,必然的に教材研究は残業となる。

「先生は早く帰れていいですね」という人がいる。
とんでもない。
大勢の教員が夜遅くまで学校に残って仕事をしている。
さらに早く帰る者も,教科書そのほかの資料をたっぷり入れた重いバッグを持ち帰り,それぞれの家庭で夜遅くまで教材研究をしている。
学校にいる時間だけで仕事を終えている教員など,ほんの一握りだろう。
それは仕事が遅いからではない。
そもそも「時間が足りないことが大前提」になっているのだ。

「それでも昔の先生は,放課後に良く遊んでくれたもんだ」と言う人がいる。
自分も先生と,運動場や公園で一緒に遊んだことを,今も鮮明に思い出す。
だが,そんな放課後はもうどこにも存在しないのだ。
なぜなら昨今,教材研究以外の,教員を圧迫するものが増えているからである。
今話題なのは「モンスター・ペアレンツ」だが,それ以上のもの。
それは昨今急激に増加している「事務処理」である。

どうも教員の「上」に立つ組織は,教員の仕事を増やすことばかり考えるようだ。
自分たちが仕事をきちんと行っていることを,「世間」に示すためである。
そのための材料を用意するために行われるのが,さまざまな調査(テスト・アンケート)の「実施」「集約」「報告」の指示。
しかも送ってくるのはテスト用紙やアンケート用紙だけで,集計は各現場の教員の仕事という場合がほとんど。
「上」はその数字に当たり前の内容のコメントをつけて発表するだけ。
場合によっては,同じような内容の指示が,同じ組織内の別の部署から送られてくることがある。しかも,微妙な違いから,改めて調べなおさねばならないような場合が多く,流用できないというおまけつきだ。
ひどいときには同じ建物の(場合によっては同じ階の)部署に聞けば済むようなことを,わざわざ現場に聞いてきたりする。
「縦割り行政」ここにありだ。
こうしてパソコンの前にいる時間が年々長くなり,子ども達の前にいる時間は年々短くなっているのが現状である。

経験とスキル,そして過去の教材という「財産」を持つベテラン教諭ならば,教材研究の部分をある程度スムーズに処理できるかもしれない。
だが,新人の教員にはそんなものはない。
ましてや単級(=各学年が1クラスずつしかない)の学校の場合は,教材を融通しあったり,分担しあったりすることもできず,負担は割り増しとなる。

自分がこれまで勤めてきた学校の場合,同年齢ならば,確実に男性の方が既婚率が高い。
その理由として考えられるのは,
 ・日々教員としての日々に埋没し,男性と出会う場・時間がともにない
 ・仕事が忙しく,仕事をしながら結婚生活を成立させられる希望が持てない
という女性教員が多いからではないだろうか。
これを異常といわずして何というのだろうか?

教育改革という言葉が,日常語になって久しい。
「教員の質的向上が急務」と主張する人が大勢いる。
実際,研修の量は年々増加し続け,その分自分の学級に臨む時間も気力も削られるという本末転倒な状況になりつつある。
「授業時数の増加が必要」と主張する人が大勢いる。
実際,次の指導要領では,授業時数が増加する。
週6日制の復活,夏休みの廃止という意見も根強くある。
だが
「教員の事務負担を減らし,授業に集中させるべき」
という声は,確実に存在しているものの少数派であり,小さい。
しかし,本当に質の高い教育を目指すならば,まさに「量より質」の精神が必要なのではないだろうか。

教員はスーパーマンではない。
あくまでも人間であり,そのリソースには限界がある。
ならばそのリソースを授業に,子ども達とのコミュニケーションにできるだけ多く割けるようにすることが,まず必要だと思うのだ。

作成時間:67分
今日は午後から町内会の総会に出席した。

教員でありながら正直,人付き合いがあまり得意でないことに加え,生来の面倒くさがりということで,これまでは委任状ですませてきた。
しかし今の地に越してきて数年,いつまでも知らん顔というわけにもいかないだろうということで,一念発起,今回は総会とその後の懇親会の両方に出席することにした。
上の子があと数年で小学生になり,子ども会に加わるなどお世話になる(お世話をする!?)のだからという思いも,出不精の私の背中を押してくれた。
今日は娘(2歳)の保育参観。
正直乗り気ではなかったのだが,妻にお尻を叩かれて同行することに。
妻いわく「娘の普段の様子を共通理解しとかなきゃ」。
そんなもの,保育園までいかなくても分かっとる!という言葉を飲み込み出発した。

実際に参観してみての感想は,
「見ておいて良かった!」
である。
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